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Silicon Graphicsの破産法申請をどう克服するか-日本SGIが目指す“新境地”【前編】

Chapter 11に負のスパイラル脱出を賭けるSilicon Graphics

 米Silicon Graphics, Inc.(以下、Silicon Graphics)は5月8日(米国時間)、ニューヨーク連邦破産裁判所に対して米連邦破産法第11条(Chapter 11)を申請した。シリコンバレーの名門であり、1990年代には21世紀の米国を支えるモデル企業とまでたたえられたSilicon Graphics。しかしその業績悪化が明らかになり、ついに今回、Chapter 11申請という形でひとつの転機を迎えた。これから、Silicon Graphicsを待ち受けている運命はどのようなものなのか。また、日本で独占的に同社の製品を提供している日本SGIはどこへ向かおうとしているのか。今回から、短期集中3回シリーズでその姿を浮き彫りにする。


周到に仕組まれた再建作戦

 今回のSilicon Graphicsによる企業再生法申請は、きわめて用意周到に組まれた“負のスパイラル”からの脱出作戦と見ることができる。

 最大の理由は、再生に向けた新体制がすでに確立しているということ。この間6年近く会長兼CEOを務めたRobert(Bob) Bishop氏が現在のDennis McKenna氏にバトンタッチし、わずかその3カ月後にこの申請が行われたことを見てもそれが分かる。2006年1月末のMcKenna氏による新体制発足の時点で、「近くChapter 11を申請し、これを短期間で乗り切る」というシナリオができ上がっていたと考えるのが妥当だ。

 その証拠に、McKenna氏の就任に合わせ、Silicon GraphicsはCFOをはじめとする主要な経営陣を組み替えた。そして、その下で人員カットも含めた再建計画も明らかにした。さらに今回のChapter 11申請に当たっては、同社のフラグシップマシンである「Altix」のプロセッサを供給しているIntelの了解も取り付け、債務削減計画については主要な取引銀行と主要債務者の合意も得ている。McKenna氏はCEO就任後、Chapter 11に向けてすべての計画を粛々と進めてきたということだ。

 Chapter 11は、簡単にいえば日本の民事再生法に相当する法制度。「企業を再生させる」というのが本来の目的である。いわゆる倒産に相当する手続を行うChapter 7と異なるが、しかし現実的には、その申請後に当該企業がどのような命運をたどるかは定かではない。

 これまでもっとも多かったのは、現経営体制の元でもがき苦しみ、どうしようもなくなってChapter 11を申請するというケース。この場合はここで債務処理をストップし、管財人を任命してから新たな経営体制を発足、その新経営体制の元で再建計画を策定して再建に向かう。もっと悪い場合は、管財人が任命された時点で再建不可能と判断され、そのまま資産が売却されるというケースもある。

 しかし、Silicon Graphicsは経営体制も再建計画も作り上げ、準備万端ととのった時点でChapter 11を申請している。Silicon Graphicsにとって、Chapter 11申請はすでにスケジュールに織り込み済みの事柄だった。だから、早くも申請の2日後の10日には、債務者から7000万ドルの資金提供を受け、裁判所からはこれに基づき日常業務はすべて開始してよいとの承認を得ている。異例の出来事である。これによって、取引先への日常的な支払など通常どおりの業務が開始された。

 幸か不幸か、同社は今回のChapter 11申請に至るまで十分な時間があったということでもある。Silicon Graphicsの業績はこの間長期にわたって業績低落傾向にあり、2005年11月7日には1990年以来その株式を上場していたニューヨーク証券取引所(NYSE)と上場廃止の取り決めを交わしている。

 長らく株価が上場基準の1ドルを切ったままの状況が続いており、その中で何度も人員カットや新再建計画を発表してきた。しかしそれでも、業績が回復しない日々が続いていた。日本SGI代表取締役社長CEOの和泉法夫氏はこれを「負のスパイラル」と指摘し、国内の記者会見の場でも「Silicon Graphicsは凋落傾向にある」といってはばからなかった。その負のスパイラルから、Silicon Graphicsは今回ようやく脱出することを決意したということだ。


Silicon Graphicsの明暗を分けたEd McCracken

 1982年に創業したSilicon Graphicsには、これまで歴代5人のトップ(会長兼CEO)が君臨してきた。

 創業者であり不世出の天才といわれたJim Clark氏(1982~1994.2)に始まり、その後を継いだ、やはりスタンフォード大学出の俊英Ed(Edward) McCracken氏(1994.2~1998.1)、そしてコンピュータ業界の実績をバックに突然Silicon Graphicsに乗り込んできたRichard(Rick) Belluzzo氏(1998.1~1999.8)、彼の突然の退任後にその責を担うことになった実力者Bob Bishop氏(1999.8~2006.1)、そして現在の再建請負人Dennis McKenna氏(2006.1~)の5人である。

 それぞれの人物に、Silicon Graphicsの歴史を重ね合わせてみると実に興味深い。もちろん、コンピュータ市場に3次元コンピュータ・グラフィックス(3DCG)というまったく新しい世界を作り出し、映像やコンテンツ中心の新しいIT市場の姿を提唱したClark氏は常にIT市場の革命児としてたたえられる存在ではある。しかし、この中で、Silicon Graphicsというひとつの企業の明と暗を分けたのは2代目のMcCracken氏といってよいだろう。

 彼が同社のトップ(会長)として君臨したのは1994年2月から1998年1月までの約4年間。しかし会社そのものには創業2年後の1984年に社長兼CEOとしてジョインしており、まさに日の出の勢いだったSilicon Graphicsをすべて自分のものとして体験している人物だ。

 Silicon Graphicsは創業時から、他のベンチャーを圧倒していたといってよい。同じ年に、シリコンバレーの隣同士で創業したSun Microsystemsとよく比較される。しかし、Sunは当時のスタンフォード大学で稼働していたコンピュータをそのまま市場に投入したもので(社名のSUNはStanford University Networkの略)、目新しいものは何もなかった。

 それに対し、Silicon Graphicsはそのスタンフォード大学の助教授であったClark氏がその教え子6人とともに創業したまさにベンチャーで、核になったのは彼が開発した3DCGを生成するジオメトリックスエンジン。これを積んだSilicon Graphicsのマシンが表示する画像を見て、世界中が驚いた。業績はまさに“倍々ゲーム”の勢いで伸び、創業10年後の1990年代前半にはコンピュータ市場を席巻していた。

 もちろん、業務用コンピュータではIBMを始め日本の富士通、日立製作所などオールドカンパニーが市場を握ってはいたが、彼らにイノベーターの雰囲気はなかった。Silicon Graphicsこそが21世紀のIT市場を担うのだという雰囲気が業界全体を支配していた。


クリントン大統領、ゴア副大統領とEd McCracken氏(右)
 もっとも特徴的なのは、当時の米クリントン-ゴア政権が産業施策の目玉として掲げた情報スーパーハイウェイ構想を実現するため、McCracken氏を全米情報基盤諮問委員会の共同議長に指名したことである。そして大統領のクリントンと副大統領のゴアは、就任早々の1993年2月に揃ってSilicon Graphics本社を訪問している。

 さらに、Silicon Graphicsはこの情報スーパーハイウェイ構想の目玉ともいうべきVOD(Video on Demand)実験を同時期に米フロリダで行い、日本でもNTTと共同で、千葉県浦安市で実験をしている。Silicon Graphicsが動けば何か新しいことが起こるという感じで、まさに世界中がSilicon Graphicsに注目していたころだった。

 こんな話もある。日本の法人、日本シリコングラフィックス(現日本SGI)は社員がたかだか100人に満たない1993年と1994年に、横浜アリーナで「Silicon Graphics EXPO」を開催した。蓋を開けたら、それぞれ2日間で1万人以上が押し掛け、会場近くの道路も電車もSilicon Graphicsのロゴ入りTシャツ、ブルゾンを着た人たちであふれかえった。Silicon Graphicsはまさに当時の時代を象徴するブランドだったのである。


繁栄の後に訪れた凋落?

 しかし何事にも、繁栄があれば没落もある。McCracken氏はその一代で、栄光だけでなく挫折も味わっている。

 市場的には1996年ごろから雲行きが怪しくなってはきていた。Windows NTなど、低価格で標準的なマシンでもある程度のグラフィックス表示が可能になってきていたからだ。当時のSilicon Graphicsのプラットフォームは独自のプロセッサであるMIPSと、独自のOSであるIRIXで作り上げられていた。プロプライエタリの世界であり、当然価格も高い。そのプロプライエタリの世界に、安価で、オープンで、標準的な流れが押し寄せてきていた。

 その潮流は、後から振り返れば誰でも分かることだが、まだSilicon Graphicsの社員は「Silicon Graphicsのロゴがついていれば黙っていても売れる」と信じていた。「別に、一生懸命売ろうと思わなくても、Silicon Graphicsというロゴがついているだけで売れる」という言葉を、当時新聞のコンピュータ担当記者だった筆者自身は、日本法人の社員から直接聞いたことがある。おごりがあった。

 さらに、1996年6月のクレイの買収がSilicon Graphicsに決定的なダメージを与えてしまった。当時、まだ潤沢な資金を持て余していたSilicon Graphicsは、いくつかの企業を買収ターゲットとして上げていた。その中に、米国を代表するスーパーコンピュータの雄、クレイがあった。

 実は、クレイは膨大な開発費がかさんで苦しい状態にあった。当時のクリントン-ゴア政権が、この米国を象徴するスーパーコンピュータの企業をなんとか救おうとその買収を懇意のSilicon Graphicsにもちかけたと考えられなくもない。

 結局、この年にSilicon Graphicsはクレイを買収するが、「買収した時点で、もうどうしようもない状況に陥っていた会社だった」と後から日本の責任者から聞いたことがある。特に、プロセッサの開発に不具合を抱えており、買収後のSilicon Graphicsの仕事はクレイのユーザーの補償に駆けずり回ることだった。


 売り上げが一気に落ちた。この年を境に、まさに日の出の勢いのSilicon Graphicsは坂道を転がり落ちるように没落していく。万端策つきたMcCracken氏は、1998年1月にRick Belluzzo氏に後を託す。このBelluzzo氏は、HPのコンピュータ部門の上級副社長で、将来はHPのCEO候補といわれていた人物。まさに業界の大物をリクルートして、再建を果たそうとしたのである。

 彼はすぐさまCFO、COOなどを自分の側近で固め、さらには起死回生の一手としてWindows NTベースのビジュアルワークステーションを投入するが、ことごとく失敗した。決定的だったのは1999年8月10日発表した大リストラ策である。鳴り物入りで出したWindows NTベースのビジュアルワークステーションを別会社に移し、ビジュアライゼーション、ストリーミングなどの部門も切り離すという内容だった。

 これを発表したとたん、Belluzzo氏の意に反して株価は暴落。その2週間後にはBelluzzo氏は“石持て追われる”ようにSilicon Graphicsを去り、代わってボードメンバーの中心人物だったBob Bishop氏が表舞台に立つのである。緊急事態だった。そして今、Belluzzoというこのイタリア系の名前は、Silicon Graphicsの中で禁句になっている。

 今から考えればの話だが、2000年の米国大統領選挙でもし民主党のアル・ゴア候補が共和党のジョージ・ブッシュをうち破っていれば(全体の得票数はゴア候補の方が50万票多かった)、Silicon Graphicsの命運はまた変わっていたかもしれない。政治の話ではあるが、ゴア政権であれば、現在の話題の中心は中東での戦争のことではなく、情報スーパーハイウェイで新たな展開があったかもしれない。Silicon Graphicsだけではないが、企業の命運は時代に流されるところがある。おもしろいものである。


HPCでは世界を圧倒

日本原子力研究所で稼働中のAltix
 結局2000年3月、Silicon Graphicsはクレイ部門をTera Computer Companyに売却している。それに先立つ1999年4月にはブランド名をそれまでのSilicon Graphicsから「sgi」に変更、そしてそれまでのグラフィックスワークステーションからビジネスサーバーや独自の共有メモリアーキテクチャによるスーパーコンピュータにシフトした。

 「Silicon Graphicsというブランドがついていれば、それだけで売れる」と豪語していた同社自身が、その考えを改めざるを得ないほど追い込まれたということである。しかし、Silicon Graphicsはこの間、ただ坂道を転げ落ちていたばかりではない。

 株価はなぜか上昇しなかったが、特にHPC(High Performance Computing)分野での卓越した技術力は生きており、今でも業界を驚かせる新製品を次々と発表している。特筆されるのは、インテルのプロセッサとLinuxという標準的でオープンなアーキテクチャを用いた「Altix」だ。

 Silicon Graphicsはこのマシンを、2003年初めに発表している。業界初の1ノード最大64プロセッサ搭載を実現したLinuxサーバーで、インテルのItanium 2プロセッサに、業界標準のLinux OSを搭載、SGI NUMAflexという共有メモリアーキテクチャを採用してきわめて高い拡張性を実現した。

 それまでのSilicon Graphicsでは考えられなかったようなマシンだ。性能はそれまでのMIPS/IRIXのプロプライエタリサーバー「Origin」に比べて数倍、価格はそのOriginに比べて数分の1というように、Originの数十倍売っても儲けはトントンという、会社にとっては厳しいマシンだった。しかし、これが市場的には大ヒット商品となった。

 このマシンの世界第一号機を納入したのは日本SGIだった。2003年3月に、東京大学地震研究所に合計108CPUのシステムを納入している。そして、このAltixがもっとも話題を集めたのは2004年に米航空宇宙局(NASA)のAmes研究所に納入したAltix合計10240CPUで構成した「Project Columbia」である。同システムは合計20システムをノード接続したシングルシステムの構成だが、そのうちの16システムを稼働しただけで、それまでスーパーコンピュータの世界ランキング「Top 500」の第一位に君臨していた日本の地球シミュレータを軽く上回り、世界No.1の座に輝いた。

 もちろん、その後いくつかのマシンによってその記録は塗り替えられているが、HPC分野でSilicon Graphicsの競争力は決して衰えてはいない。日本でも日本原子力研究所(現日本原子力研究開発機構)の2048CPU構成のシステムなど、大学、官公庁、民間企業で数多くの大規模システムが稼働している。

 しかし、いずれにしてもSilicon GraphicsはChapter 11申請という形で、再スタートを切ろうとしている。これに対して、日本で同社の製品を独占的に販売している日本SGIは何をしようとしているのか。実は、その日本SGIの路線はSilicon Graphicsは一線を画すものであり、今日に至る経緯をたどるとまた別の戦略が見えてくる。



URL
  米Silicon Graphics, Inc.
  http://www.sgi.com/

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( 宍戸 周夫 )
2006/05/22 00:00

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